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ラオスでの記憶
Born in Laos


バンバーン村
家族 | 学校 | 家業



私は、1954年にラオス北部シェンクアン県カム郡バンバーン村に13人家族の5男として生まれた。

それは、ラオスがフランスより完全独立した翌年のことであった。

この村は、北ベトナムの国境まで約50Km、ラオスの古都ルアンパバンからベトナムに通じる国道7号線が村の中心を通っていた。

この国道は、フランスの殖民地時代の戦略的な道路でもあった。

村全体が小高い場所にあり、人口は1960年頃で1000人程度だったのでは

ないだろうか。大小の川があり、農業に適した地でもあったので、

農産物が豊富で、戦時中でも食料に困ることはなかった。

バンバーン村はカム郡の中心地かつ国境貿易拠点地であり、

村市場には商売に関わる華僑やベトナム人が多く住む活気のある村で、

ジャール平原にある空軍基地からベトナムへの中間地点として、

フランス植民地時代から大きな駐屯地が村の中心にあった。

田舎の水車
この村でよく見かけたものと同じ型の水車

レンガの家やコンクリートの建物など植民地時代の面影があちこちに見受けられた。

この村で、内戦が始まって数年後の8才までを過ごすことになる。


[歴史的背景概略]
1961年頃から激化してきた政府内紛争でビエンチャンを逃れた左派と中立派が、このバンバーン村を含めた東北地域を支配する。
その後、ベトナム戦争の巻き添えとなっていくことになる。



村

以下が、私の記憶の中のバンバーン村の地図である。

私の家だけが大きく描いてあるが、ただわかりやすくしただけである。私の家を含めた華僑居住地域の家々は、

実際には小川裏まで敷地が続いていて、その向こうには駐屯地があった。

どの村でもそうだが、市場の周辺にはそのお客を見込んで商売をする華僑やベトナム人が多く住んでいた。

それ以外の家々は、自分の田畑の近くにあった。

レンガの家々にはお金持ちの華僑たちが住んでいて、裏庭は約500mほどあったのではないだろうか。

そのうちの1件に、昔から生えているのか大きなマンゴーの木があった。だがあまりにも高すぎて実を取ることはできず、

自然に落ちてくるのを待つのみだったことを覚えている。人の家のマンゴーだったが、子供が取るぶんには文句は言われなかった。



バンバーン村地図


この自伝は、私の記憶を整理しながら、断片的不定期に追記していくため、時期が前後することもあります。




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